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時代小説、映画、JAZZ、それらを大人の楽しみとして愛でること。雨の夜の鴉のごとく、耳鳴りとともに日々の悪夢に苛まれつつも。

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士魂、商才にあらねども-乙川優三郎「霧の橋」

「霧の橋」


(講談社文庫)


乙川優三郎の1997年のデビュー作です。
第七回時代小説大賞を受賞した長編。
事実上この小説が乙川優三郎のその後を決定づけたといっていいでしょう。
丁寧かつしなやかな描写と、エピローグから終章までの物語の構造。
どれをとってもじつに清新、かつ重厚なデビュー作です。
今までずっと乙川優三郎を読んできて、
やっとデビュー作にたどりついたのですが、
現在から見るとデビュー作ですから、だいぶ綻びも見えそうなはずなんです。
でも緊迫感のある筆運びに一気に読まさせられ、
ことに鮮やかなラストで涙ぐんでしまうと、
少々の瑕瑾は、まあいいか、
こんなに泣かせるんだからと思ってしまったのでした(笑)
乙川優三郎の小説は暗く重い。
だからこそ結末にはきっと一条の優しく明るい光が差してくる。
そういう方程式はやはりデビュー作からあったんですね。
しかしラストに決まって心むせる感動を用意するというのは、
生半可な技量ではありません。
この小説、経済小説であり、士道小説であり、夫婦愛の小説でもある。
まことに欲張りな、そしてそれを苦もなく実現した小説だといえそうです。

浅草田原町に店を構える紅屋惣兵衛は、
もとは江坂与惣次という名前で元一関藩の武士であった。
十六年前に父を殺され、足の悪い兄に代わって仇討ちの旅に出た。
10年の間仇を求めてさまよい、
辛苦の末、やっと仇を討ち取って帰参すれば、
兄は公金横領の罪で切腹した後だった。
与惣次もすぐさま領外追放となった。
江戸に来た与惣次は、
乱暴されそうになっていた浅草の紅屋のひとり娘おいとを助ける。
紅屋の主人である清右衛門は与惣次をすっかり気に入り、
婿養子にと請うた。
食い詰めていた与惣次は考えたあげくに武士を捨て、
おいとと夫婦になって店を継ぐ。
清右衛門の死後、小商いだが順調に来ていた紅屋。
しかしそこに日本橋の勝田屋から、
紅を一手に卸さないかという話が舞い込む。
その話の裏に大店の陰謀を嗅ぎとった惣兵衛は……

この小説の驚くところは第1章が与惣次の父、
江坂惣兵衛が知友林房之助の手にかかり、殺される顛末について、
まるで独立した一遍の短編のごとく書かれていることです。
導入部としては破格の力編です。
非常に良く出来ていて、これだけでも十分に小説として成立すると思います。
もしかしたら、これだけの長編に膨らむ前の、
タネのような小説だったのではないでしょうか。
まずこの顛末が最初に小説として書かれた。
それを発酵させ、後ろに繋がる紅屋惣兵衛の話を書き継いだ。
そんな感じもします。
それゆえか、
この父惣兵衛の死の顛末は小説全体の大きな伏線になっていて、
父の死の顛末を受容するか、しないか、
与惣次が紅屋惣兵衛として、真実武士を捨て、
果たして商人として生きていけるか、
自身に問う試金石のような役目を果たしています。
つまりこのことがなければ、仇討ちに出ることもなく、
兄もまた公金横領などということにはならなかった。
江坂家の、そして与惣次の人生の歯車が狂いはじめた大きなきっかけ。
またおいとと夫婦になり、紅屋を継いだことも、
惣兵衛の人生、その波乱の出発点はすべてここにあります。
人の人生とは不思議なものです。
そのときその場で最善の選択をしながら生きている。
そうは思っていても、気がつくと思いもかけない場所に出ている。
果てしもなく遠くに来た、という感慨があるかも知れません。
来たかったのはこんな場所ではない、そう思うかも知れません。
紅屋惣兵衛は来たかった道ではなかったが、
大店の陰謀に対して、妻のおいとと、
そして惣兵衛を助けて懸命に働く店の者たち、
今ある平和でつましい日常を懸命に守ろうとします。
これはとても良くわかります。
なんか大きな会社に食い潰されそうになって、
懸命に守り抜こうとしている中小企業。
そんなイメージが重なります。
そして妻のおいと。
武士であったがゆえの思慮や所作、
そして刀を持つ武士という根源的な冷酷さ、
ともすればそんなものを見せがちな惣兵衛との心の隔たりに、
おいとは悩みます。
そして惣兵衛も。
心底かけがえのない人だと感じつつ、すれ違っていくふたりの心の動きを、
この小説はとても巧みに描いています。

父の死の部分は士道小説、大店との死闘は経済小説。
そして妻のおいととの部分が夫婦愛。
この3つが絡み、まるで入れ子構造のような小説になっていて、
でも決して複雑ではない。
そのどれもがこの小説になくてはならない要素になっています。
良く出来た小説です。
最後の霧の橋で、果たし討ちに行き、何もかも受け入れ、そして許し、
橋から引き返す惣兵衛の前に、
霧の中から浮かび上がってくる女の姿が見えます。
隠してあった刀を持ち、意を決して朝早くから出掛けた惣兵衛を心配し、
追いかけてきた、寝間着姿で裸足のおいとでした。
この場面はずっと感情移入してきた読者にとっては、
不意打ちのような、
それでいて温かい涙を誘います。
士魂も商才もただ己が身一つ。
そのふたつがおだやかに融和してこそ、
惣兵衛の真実の生が始まるのでしょうね、きっと。

余談ですがこの小説、なんとなく藤沢周平の「海鳴り」を思い起こしました。
個人的にはとても好きな小説です。
内容は違いますが同じ商人の物語。
読み比べてみるのもいいかも知れません。

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2009-02-12(Thu) 00:34| 乙川優三郎の世界| トラックバック 0| コメント 1

荒波のなかの男と女-乙川優三郎「むこうだんばら亭」

「むこうだんばら亭」
乙川優三郎-「むこうだんばら亭」
(新潮文庫)


2005年に刊行された乙川優三郎の連作集。
「椿山」という短編集に収録されていた「ゆすらうめ」という作品がありました。
その主人公であった孝助のその後を綴ったものです。
舞台は房総の銚子近辺。
利根川の河口に近いうらさびしい土地です。
「ゆすらうめ」で孝助が助けようとした娼妓のたか。
それと同じ名前の女、たかをとある宿場で身請けした孝助は、
たかを連れてこの土地に流れ着き、
居酒屋「いなさ屋」を営みはじめます。
そして裏では女稼ぎの口入れ屋も。
貧しさに追いつめられ、もう身を売るしか術がない女たちが、
孝助を頼って「いなさ屋」を訪れ、そして去っていきます。
是も非もない生きることの荒波に翻弄され、
流されつつもしたたかに立ち向かう女たち。
そんな女たちを蔭で見守り、ときには冷たく突き放す孝助。
この連作は「いなさ屋」に関わる女たちと孝助の物語です。
だんばらとはダンバラ波のことで、
利根川の水と海の水がせめぎあって出来る大波のこと。
漁師たちにとって、ともすれば命を落としかねない危険な波です。

「男波女波」

農家に嫁いでいたゆうは、
身体が弱く役に立たないという理由で離縁される。
子供もあったが、置いてきていた。
生きるために何でもしようと、いなさ屋へ女稼ぎの口を頼んだが、
身体の弱いゆうには口が無かった。
孝助はゆうに、いなさ屋の手伝いをさせる。
表情が淋しく、要領も良くないゆうは客の受けも悪かった。
店の役に立ってないと感じたゆうは、
いつまでも孝助に甘えることは出来ないと考えていたが、
おいそれと身過ぎの道は見つからない。
それもこれも自分という女に自信が持てないからだとゆうは考える。
酔客に嫌われるゆうだが、ひとりだけ話をしてくれる男がいた。
外川の漁師である佐多蔵である。
佐多蔵もまた心に鬱屈を抱えていた……

ゆうは身体が弱いことで生きていくことが困難だと考えています。
それは我を抑えた生き方にもつながり、
女郎でも酌取りでも、なんでもやって生きていく、
そういう心の逞しさに欠けているわけです。
孤独でもある。
一方佐多蔵のほうは、
子供を流産したことが原因で女房に死なれている。
女房は明るく働き者で、佐多蔵も慈しみ仲も良かった。
だがその女房には佐多蔵には知らない世界があった。
幼なじみの男と関係していたことも分かる。
そのことにこだわり、佐多蔵は苦しんでいます。
そのふたりが出会い、少しずつお互いの傷を寄せ合い癒されていく。
なんでもないような小さな物語ですが、
その小ささゆえでしょうか、
挫折と絶望をふたりして越えていこうとする男と女の姿が、
なぜか印象深いです。
ゆうのために酔客と殴り合い、
ゆうに抱えられ、いなさ屋を去っていく傷だらけの佐多蔵。
男が守り、女が育てていく。
寡黙な海辺の土地で紡がれる小さな物語の最後は、
とてもぬくもりを感じます。

「果ての海」

孝助とたかがこの土地に流れ着き、
いなさ屋を始めて六年が過ぎた。
いなさ屋の二階に住むふたりだが、
孝助はたかを六年の間抱こうとはしなかった。
周りから夫婦のように思われているふたり。
武士の娘だったが、宿場女郎に売られたたかは心に負い目を持つ。
そして自分の身が汚れているから、
孝助が抱こうとしないのではと考えていた。
たかにとって孝助はすでにそばに無くてはならない存在だった。
それは孝助も同じだった。
あるときふたりが可愛がるいなさ屋の下働きの少女ぬいに、
身売りの話が持ち上がる。
たかは自分が貯めた金を出して、ぬいを助けたいと孝助に言う。
孝助はひとり助けても詮ないことだと、
取りあわなかったが……

孝助はいわば諦念に囚われて生きている男です。
若い頃から娼楼の番頭を勤め、
身体を売るしかない女たちの背後にある、
どうしようもない貧困という現実。
それを見てきた孝助はたしかに無力感を抱えています。
でもじつはひとりであっても救いたいと考えているはずなんです。
たかはその孝助の気持ちによって、
苦界から救い出されたわけですから。
どこか周りの人々を遠くから眺めているような孝助も、
たかやいなさ屋に関わってきた女たちに少しずつ動かされ、
変化していきます。
でもその諦念からどうしても解き放たれない。
孝助は何人も養子を取って育てる三味線弾きの師匠の家を訪ねます。
その師匠の言葉で、
孝助は己の不分明な気持ちに踏ん切りをつけます。
たかとぬい。
そのふたりを新しい家族として再生しようとする孝助。
期せずして房総の海に、
漁師たちが待ちわびていたイワシの大群が現れます。
活気づく漁場を見ながら、
孝助は新しい人生に踏み出していくことを予感します。
海にイワシの大群が来たと大声で叫び走るぬいの姿が、
とても印象的です。

遠くに打ち寄せる荒々しいだんばら波の白い波頭、
そして鳴りやまぬ房総の海風、
読んでいるさなかも、もの哀しいそれらが、
ずっと脳裏に見え聞こえする。
そんな感じの小説です。
この小説、けっして明るくはありませんが、
抑えた筆致に滲み出る哀しみの向こうに、
ひりつくように酷い浮世でも懸命に生き抜こうとする人々がいる。
生き抜くこと、それこそが希望そのものだというように。
そのことをあらためて教えてくれる気がします。

そのほかの収録作品

「行き暮れて」
「散り花」
「希望」
「旅の陽差し」
「古い風」
「磯笛」

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2008-12-14(Sun) 19:35| 乙川優三郎の世界| トラックバック 0| コメント 1

武士であることの辛酸-乙川優三郎「生きる」

「生きる」

乙川優三郎「生きる」
(文春文庫)


直木賞受賞作「生きる」を含んだ中編集です。
とにかく暗いです(笑)
こんなに暗くて良いのかと思うくらい暗い(笑)
でもどの作品も最後には明るいものが心に差し込んでくる。
なんだか不思議な感じがします。
この読後感はいわく言い難いです。
それぞれの作品、文字通り人が生きることとは何か、
そのためには何が必要なのか、
そのことを深く問いかけてきます。
そしてそれぞれの登場人物の生きる姿勢もさることながら、
どんな生き方にせよ、
人が生きるという意味はその人のものでありながら、
他の個とも分かちがたく共有しているものなのだという単純な真実を、
あらためて気づかされもします。

「生きる」

江戸表にいる藩主、飛騨守は病臥にあり余命幾ばくもなかった。
その飛騨守の恩顧で、石田家は譜代の家臣を差し措き、順調に繁栄してきた。
もし飛騨守が身罷るときは追腹を切らねばならない。
当主である石田又右衛門は国元でそう考えていた。
その又右衛門がある日筆頭家老の梶谷半左衛門に呼びだされる。
呼び出された席には旗奉行の小野寺郡蔵もいた。
家老の用向きは、もし藩主が身罷ったときには追腹をするものが後を絶たなくなる。
それを止めるには追腹禁止のお触れを出すしかない。
ついてはふたりにも協力してほしいと持ちかけた。
もっとも追腹を切りそうなふたりを選んでのことだった。
家老に説得され、ふたりは追腹を切らないことを家老に誓う。
だが藩主が亡くなると、追腹をする者が絶えなかった。
あれほど亡き藩主に目をかけてもらって、なぜ追腹を切らないのか、
希代の臆病者だと周囲に白眼視されても、
又右衛門は家老に誓った以上追腹を切ることが出来ない。
そのうち娘婿までが追腹を切る。
又右衛門は死ぬより過酷な生き様を強いられ、茨の日々が続く。

追腹というのは亡くなった藩主の後を追って切腹すること。
つまり殉死です。
寛永三年に追腹の禁止が幕府から出されるまで、
当たり前のように行われ、追腹が多いのは人望の高さとされていました。
戦国の世の名残、そういう風習です。
この追腹を題材とした森鴎外の傑作「阿部一族」はあまりにも有名です。
追腹を切ることを藩主から許されなかった肥後藩阿部一族が、
女子供まで道連れにしながら、
その恥辱をそそぐために藩に刃向かい、
壮烈に滅んでいく小説でした。
でもこの小説の又右衛門は、
阿部一族のように華々しく死ぬことも出来ず、
周囲の蔑視に耐えながら生き続けます。
夫を追腹で失ったことで精神に異常をきたす娘。
娘の婚家からは義絶され、
家が受ける恥辱に耐えかね切腹するまだ若い長男。
ついには心の支えだった妻にまで先立たれる。
それでも又右衛門は黙々と生きていきます。
死ぬより辛い生です。
途中でポキリと折れてしまってもおかしくない。
そんな生を営々と生き続ける又右衛門。
なにが又右衛門をそうさせるのでしょう。
約束した以上二言は無いとする武士の意地でしょうか。
そうであれば意地を貫いて生きる先に見えるものは何か?
読者も迷う感じです。
最後にある光景に出会い、
年老いた又右衛門が身も世もなくオロオロと泣き出す場面は、
背負った重い生と、一条の光が交錯する印象的な一節でした。
人が生きる、ということを深く考えさせられる作品です。

「安穏河原」

羽生素平は誇り高く清廉な武士だった。
国が飢饉に遭ったとき郡奉行の役職にあった。
窮した藩は年貢の代わりに金を差し出す無尽講の策を打ち出す。
百姓の難儀を見過ごすことの出来なかった素平はこれに反対し、
意見書を出したが受け入れられず、職を辞して国を出る。
そして江戸に来た。
自分のような武士ならいつかは仕官できると信じていた。
しかし容易に仕官の口は無く、
人足などして糊口を凌ぐのが精一杯の生活だった。
そして江戸に来て八年目、 妻が発病して一家はどん底に落ちる。
ついに素平は一人娘双枝を女郎に売る。
若い浪人者織之助は、
せめてまともな客を世話してやりたいと素平に金を渡され、
時々双絵の娼楼に上がっていた。
その双枝は躾の厳しかった父の言いつけを守り、
女郎に身を落としても、卑しい態度は微塵も見せない、
志の高い娘だった。
喰うためには何でもやってきた織之助にとって、
そんな双枝は日増しに気がかりな存在になっていく。

悲運な生を甘んじて受け、そのなかでも矜持を保ち続ける双枝。
武家の娘の誇りの拠り所、その心象にあるものは、
まだ家族が国元で幸福に暮らしていたときに行った紅葉狩り。
その河原での思い出を冒頭で織之助に語ります。
そんな双枝の存在が気に掛かるものの、
誇り高き者が現実の汚辱にまみれてのち、
なおかつ崇高に生きていくことなど出来はしない。
織之助はそう思っているフシがあります。
そして父親の素平に対しても苛立ちと蔑視を隠せない。
物語はそういう親娘に付き合っている織之助の視線で描かれます。
それにしてもため息が出るほどつらい作品でした。
じつのところいったん途中で投げ出したほどです(笑)
誇り高き武家の娘が女郎に身を落とし、
それでも毅然として生きていく。
こんな酷い話があるのか、そう思うから先に読み進めない。
そんな感じでした。
でも最後まで読むと、なぜか妙に心が安らぐのです。
素平は割腹し、双枝は岡場所の町が水害にあったとき行方不明になります。
何年か後に商人となって成功した織之助が、
ある町で小さな女の子に出会います。
双枝に面影が似ている。
近所の者に聞くと夜鷹の娘だという。
心動かされた織之助は、
ひもじそうな娘に団子を買ってやります。
そのとき「おなか、いっぱい」と娘は答えて断ります。
それはまさしく双枝の言葉と同じでした。
素平は娘に人に食べ物を恵まれたときは、
「おなか、いっぱい」と答えるようにと躾けたのです。
でも双枝らしきその娘の母親は死んでいました。
最後にふたりで河原に佇みます。
あの紅葉狩りの河原のように。

今回はなんだかとことんネタバレになってしまった感じです(笑)
でもこれでも語り尽くせない何かが残っているような気がします。
いわく言い難い。
でも不思議な暗い魅力を放ち続ける。
もしかしたら希有な作品集かもしれません。

そのほかの収録作品

「早梅記」

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2008-11-30(Sun) 00:58| 乙川優三郎の世界| トラックバック 0| コメント 1

人の人生を思って忍び泣く-乙川優三郎「喜知次」

「喜知次」
乙川優三郎「喜知次」
(講談社文庫)


乙川優三郎の初期の長編です。
題名からしてあまり食指が伸びなかった、というのが正直なところです。
どうも中身が想像できない感じでしたので。
本の題名というのは不思議なもので、
読者にとって激しくそそるものもあれば、
何となく近寄りがたいというのもあるわけで、
本の題名いかんで売り上げも違うでしょうし、
大げさに言えば本の題名というのは、
その一冊の本の命運を握るキャスティングボードです。
もちろんこれには個人差がありますが。
だからわかりやすく万人が読みたい、
そう思わせる題名というのは意外にむつかしいものだということになります。
でもまあこの「喜知次」
乙川優三郎だから外れはないだろうと、
気を取り直して読み始めたわけなんですが、
いや見事に泣かされました。最終章で(笑)
本の中に出てくる人の人生を思って忍び泣く、
というのは何年ぶりでしょうか。

小太郎は藩の祐筆物頭日野弥左衛門の長男。
あるとき6歳になる女の子、花哉が家に貰われてくる。
両親が亡くなったので父親が引き取ったのだ。
小太郎は黒目の大きなその女の子に喜知次というあだ名を付ける。
喜知次というのはキンキという魚の異名で、
目が大きく飛び出た魚である。
小太郎は喜知次と庭の菊を摘みながら、
愛らしい妹が出来たことに宿命的なものを感じ、
同時にくすぐったいような喜びを感じる。
時おりしも藩は2つの勢力に分かれ、暗闘を繰り返していたが、
そのあおりで、藩内に大規模な一揆が起こり、
藩の重職たちはその鎮圧に苦慮していた。
小太郎は城下の知明館に通い、
同塾の牛尾台助と鈴木猪平と身分を越えた友情で結ばれていた。
そのひとり、郡方である鈴木猪平の父親が、
一揆の鎮圧の際、無惨に殺されるという事件が起こる。
父親を殺され、少ない家禄まで半減された鈴木家の苦難が始まり、
小太郎と台助は猪平を励ましながら、
事件の真相を探っていく。

この小説の主人公小太郎は、「椿山」の主人公、才次郎を彷彿とさせます。
違うのは、幼い頃に歪みきった武家社会の身分制度の過酷さを、
嫌というほどたたき込まれ、出世欲を燃やして、
どんな手段を使ってでも這い上がろうとした才次郎と違い、
小太郎は藩政の要は農にあると考え、
祐筆物頭というお城勤めの家柄から、
郡方という農民とじかに接する現場の役人へと降りていく。
結果的に藩の中枢に登り、改革をしたいと考えているわけですが、
そのベクトルは反対です。
そういう志を持って、成長していく小太郎、
次男ゆえに商人になろうとする台助、
そして自分の父親を殺した犯人を見つけ、
なんとか仇討ちをしたいと、貧苦の生活に耐える猪平。
この3人の友情の行く末がこの小説のひとつの柱となっています。
似たような設定に藤沢周平の「蝉しぐれ」がありますが、
けっしてトレースしたのではない、乙川優三郎の描く清冽な友情があります。
物語はこの3人を中心に進んでいきます。
しかし誰がいったい猪平の父親を殺したのか、
藩内の抗争と相まって、物語の謎は深まっていきます。
それと同時に、成長する義妹の存在が小太郎のなかで日増しに大きくなり、
心の支えとなっていく。
これがこの小説「喜知次」の大きな伏線です。
喜知次とあだ名をつけられたが、他のだれにも喜知次と呼ばせない。
兄だけがそう呼ぶのを許す花哉。
この喜知次、まことに可憐です。
幼い頃、二人で庭の菊を摘む場面がでてきます。
その透明感溢れる描写に我知らず幼い喜知次に思い入れをしてしまいます。
物語の最終章になって大きなどんでん返しがあるわけなんですが、
喜知次が可憐であればあるほど、
そして芯の強さが分かればわかるほど、
皮肉な運命に黙ってつき従った喜知次の生涯を思いやって、
この最終章でもう忍び泣くほかありません(笑)

この小説、乙川優三郎の傑作だと思います。
くれぐれも題名の喰わず嫌いを恥じた次第です。

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2008-11-09(Sun) 18:37| 乙川優三郎の世界| トラックバック 0| コメント 1

どん底の花-乙川優三郎「椿山」

「椿山」

乙川優三郎「椿山」
(文春文庫)


3編の短編と表題作の中編の4作を収録したこの作品集、
平成10年刊行ですから、乙川優三郎のものとしては初期のもの。
しかし精緻な筆に乗せた乙川ワールドが存分に展開され、
読むものを虜にします。
この中から後年の作品に繋がったものがあるような感じです。
さてこの作品集。
女性を主人公にした短編3題が印象的です。
これが「ほどよく暗い短編」の白眉といってもいいです。
ちと大げさか(笑)

「ゆすらうめ」

16のとき越後から身売りされてきたおたかは、
その器量で売れっ子の娼妓となったが、
6年が過ぎ年期明けが目前に迫っていた。
娼楼の女主人の弟である番頭の孝助は、
おたかが堅気になったときの仕事まで世話する。
孝助は色町での暮らしから抜け出したいと考えていたが、
自分ではどうすることもできず、
おたかがこの先無事に堅気になれるかどうか、
それに己れの行く末を賭けているところがあった。
堅気となったおたかと、この町を出る。
そんな夢も孝助にあったかもしれない。
やがておたかは年期が明け、孝助の世話した茶店で働き始める。
だがすぐに越後から兄がやってきて、おたかに金の無心をする。

結局おたかは実家からの金の無心に応じ、
わずか3日の堅気暮らしの後、海老屋に舞い戻ります。
孝助が金を用立てるといっても聞かず、
家族のことだからと、自分の意思で再び娼妓になります。
海老屋に戻ったその日、そこには紛れも無く臈たけた娼妓のおたかがいます。
自分を身売りした女衒の錦蔵を艶然と誘い、そして孝助に微笑みかける。
菩薩です(笑)
孝助はその姿に後押しされたような気分になるというのですが、
それもどうだかわかりません。
自分で道をつけることもできない。どうも男はだらしない(笑)
ゆすらうめはサクランボに似た赤い小さな実をつける果樹です。
梅桃、山桜桃梅とも書きます。
小さな赤い実が少しの風にも揺れる様子からこの名前がついたのかも知れませんね。
姿ははかなげですが、ゆすらうめの性質は強健で暑さ寒さに強く、虫にも強い。
おたかの姿なんでしょう。きっと。

「白い月」

博打の魔にとり憑かれた亭主の借金の尻拭いで、雨中を金策に走るおとよ。
かざり職人の友蔵はおとよの死んだ母の面倒を死ぬまでみたが、
おとよの母の薬代に困り、博打に手を出してから、
病み付きになり転落の一途を辿る。
おとよは母親の残した、友蔵はいい人だから大事にしなければならない。
その言葉を守って別れないできたが、
博打の借金がもとで、暮らしは追い詰められ、すでに限界まで来ていた。
おとよは働き、自活しようとする。そして友蔵と別れようと決める。
そんなある日、所在が分からなくなっていた友蔵から言付けが届く。
のっぴきならなくなって江戸を離れるので、
金を都合してくれというものだった。
おとよは放っておこうと思った。
だがおとよは待ち合わせの場所に現れる。
自分の髪を売った金を持って。

友蔵は二股道を右に行くのか左に行くのか、
風に押されて決めるようなところがある男。
そんな友蔵に愛想を尽かしながら、おとよは別れることができない。
一緒になった当初の幸せだった頃、
その頃の友蔵の良さが忘れることが出来ないおとよ。
友蔵の善の部分だけに引きずられていることに気づいていない。
最後に一年待ってくれ、
必ず帰ってくるからと友蔵は言う。
そのまるで当てのない言葉に、
おとよは一縷の希望を持ったように微笑む。
また一からやり直せるかも知れないと。
その当時女が髪を切ったらもう外へは出られない、
働くことも出来ないわけです。
なんなんでしょうね、この尽くしようは(笑)

「花の顔(かんばせ)」

わずか三十石の下級武士の家に嫁ぎ、
姑のたきにいじめ抜かれ、気の休まるときのなかったさと。
舅の死をきっかけに姑のたきが惚けはじめる。
夫と長男は江戸にいて留守で、
徘徊に排泄物垂れ流しと、刻々と病状が進む姑とふたりきりの、
凄まじい暮らしが繰り返される。
近所づきあいも断たれ、
助けてもらうことも相談することも出来ず、
さとは疲れ果て、
もう姑を殺して自分も死のうと思い詰める。
雪の降る晩。
たきを殺そうと寝所に行ったさとは、
たきが寝所の縁側に座り、呆然と雪を見つめている姿を見つける。

今でいう介護の問題がこの短篇では書かれています。
姑のたきもまた、嫁いでから姑にいじめ抜かれ、
気の休まるときがなかった。
雪見など落ち着いてできる状態ではなかったというわけですね。
だから巡っているわけです。
そのことにさとは気づいて、ふっと心を緩ませる。
介護の問題は永遠のテーマですが、
当時の武家の社会に持ってくると、
また違った、じつに厳しい面が現れてきます。

この3つの小説。
娼妓、職人の女房、下級武士の妻と、
住む世界も置かれた位相も違いますが、
小説の最後にたたずむ3人の女の姿は、
不幸のあとさき無く、救いも絶望もお構いなしに、
ただそのとき、どん底に咲く花のように微笑んで、
ただただ優しい。そう思います。
乙川ワールドですね。これが。

最後の表題作「椿山」は不条理な身分社会から這い上がろうとする若い武士を描いた好編ですが、
いかんせん結末が性急すぎて腑に落ちず。
強烈な残り香を放つ前述の女3題、
そのどん底の花の前に、
あえなく霞んでしまいました(笑)

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2008-11-08(Sat) 02:44| 乙川優三郎の世界| トラックバック 0| コメント 0

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