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時代小説、映画、JAZZ、それらを大人の楽しみとして愛でること。雨の夜の鴉のごとく、耳鳴りとともに日々の悪夢に苛まれつつも。

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作家の数だけ江戸がある

時代小説ばかり読んでいると、当時の雰囲気、つまりその昔の江戸や上方、京の町の風景や雰囲気はいったいどうだったのか?また地方に行くとどうだったか?
そんなとりとめの無いことを想像することがよくあります。
想像のもとになる頭の中にある情報は小説や、考証もの、江戸学の類の経由のものです。
そこから取捨選択、類推し、想像しているわけで、江戸の町の風景ひとつを取ってみても、要するに誰の小説を一番読みこんだか、誰の情報に一番毒されたか(笑)という話になってしまいます。
例えば時代小説のメイン舞台になることが多い江戸だと、池波正太郎の鬼平や梅安に傾倒していれば、江戸の町というのは盗賊や殺し屋ばっかりで、どうも魔窟というか闇黒というか、そういうイメージが先行して、のんびり穏やかに暮らしているという感じが薄くなりますよね。虚構なんだからと理解していても、江戸の町は昔のニューヨーク並にけっこうヤバかったんじゃないか(笑)なんて、
そういうイメージに彩られてしまうところがあります。
反対に宮部みゆきの「ぼんくら」や「日暮らし」なんかにハマってしまうと、天才美少年の弓之助や仲良しの歩くテープレコーダーのおでこがバタバタと走り回る江戸の町は、なんと明るく穏やかで良いところだ、なんて思ってしまいます。食べ物もおいしそうだし。
藤沢周平にしても江戸の町を舞台にした小説をたくさん書いていますが、江戸の深川や本所の水際あたりの描写は相当なもので、読み耽っていると絶対にこういう風景はあったに違いない、いや間違いない、とまあ、そのうちだんだんと確固たる江戸の町が自分の中で出来上がったりします。考えてみればかなり怖いことです。その作家が考えた過去の町並みが自分の頭の中に根付くのですから。こういうの、ありていに言えば刷り込みですよね(笑)
でもこれが分岐点というか、かなり大事なところで、あとあと時代小説を読み込んでいくうちに、それが知らず知らずに小説を選ぶ好悪の基準、物差しになっていることがあります。
突き詰めれば好き嫌いなんだからそれでいいと思うのですが、それがために喰わず嫌いになってしまうこともなんだか口惜しい気もします。
闇黒の江戸、風情の江戸、人情の江戸、明るく賑やかな江戸、いろんな江戸があっていいわけです。
作家の数だけ江戸の町があり、また読み手の数だけ江戸の町もあるわけですから、あんまり物差しを振りかぶらないで、ニュートラルに構えて、小説に書かれた江戸の町を歩き回って楽しむのが一番かも知れません。
しかし江戸という都市は不思議ですね。これだけ小説の舞台になる過去の都市というのはほかに見当たらない気がします。

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2008-09-25(Thu) 23:41| 江戸はやっぱり面白い!| トラックバック 0| コメント 0

しぐれ町の普通の人々-藤沢周平「本所しぐれ町物語」

「本所しぐれ町物語」

藤沢周平「本所しぐれ町物語」
(新潮文庫)


この本は藤沢周平としては珍しい試みで、本所しぐれ町という架空の町を舞台にした市井ものだ。連作の形で書かれていて、しぐれ町の住人がそれぞれの短篇に主役として、あるいは脇役として作中に顔を出す。短編集というよりは連作集か。でもしぐれ町を主人公とした長編小説とも読める。
べつだん事件らしい事件も起こらない。いつの世でも、またどこにでも起きそうな日々の、さざ波のような出来事が淡々と綴られる。
しかしヒーローも特徴的な人物もいないかわりに、端正な筆でここに書き込まれた人物たちは平凡であるがゆえにかえって陰影が深い。

「鼬の道」

「鼬(いたち)の道」は上方を食い詰めて舞い戻ってきた弟に転がり込まれて、その去就にやきもきする兄の物語。その兄の心理が妙に身につまされる。
十五年も前に、江戸でなにか危ないしくじりをやらかして上方に逃げ、長い間音信不通だった弟の半次が上方も食い詰めたらしくひょっこり江戸に舞い戻ってくる。うわべでは真っ当の暮らしをしろと説教し、仕事につかせようとあれこれ算段している兄の新蔵だが、その心の奥底では弟を疫病神のように思っている自分に気づいている。
案の定半次は仕事にもつかず、ぶらぶらしているばかり。新蔵の不安はますます募る。
ある日過去にしでかした不始末の事で、やくざに追われた弟が、やはり江戸にも居場所が無いと知り、仕方なくまた上方へ戻ると言う。それを聞いてなぜか安堵する兄。
ラストは上方に立つ弟を見送った兄が、ほっとした気持ちと同時に、もう弟はこの江戸に帰ってこない。もう二度と会えないのだと気づいて呆然とする場面で終わる。
鼬は二度と同じ道を通らない。鼬の道とは行ったきりでつきあいの絶えることをいう。新蔵は唯一の肉親である弟にもう二度と会えないのだ。たとえそれがどんな弟であろうと。
弟の半次はどうしようもない人間だが、藤沢周平は決して排除はしていない。
二度と会うことがないと知ることで、半次はかけがえのない肉親なのだと気づく新蔵の心中でそれは表現されている気がする。

「約束」

「約束」は博打やらなにやらで、あちこちに借金を残して死んだ、飲んだくれの父親のかわりに、自分を女郎屋に身売りしてその借金すべて払ってしまう十歳のおきちの物語。
こう書くだけでもかなり悲惨な物語という気がするが、読んでいてあまりそういう感じはしないのはなぜか。おきちがあまりに健気でしっかりしているせいなのだろうか。
この作品に登場する人物たちにあくどい者はひとりもいない。博打の借金を取り立てにきた者も、金貸しの婆さんも、おきちが身売りを持ちかける女衒も、誰ひとり悪人はいない。それどころか誰もが本気でおきちの行く末を心配しているところがある。おそらくこの物語が悲惨なイメージを免れているのそのせいだろうと思う。
おきちはこの本の別の章で、大店の旦那に苦界から救い出される。おそらくそうなるんだろうな、いやそうなってほしいと、予定調和の願いみたいなものに読んでいてとらわれる。おきちの周りの善意がそう感じさせるのだろう。
この「本所しぐれ町物語」に登場する人々は、日頃わたしたちの身の周りにいて、なにげに暮らしている普通の人々と同位相にいる。人は善である。ただ心弱き者であるだけだ。藤沢周平はそう言っている気がしてならない。

素人の想像ですが、ある架空の町を設定し、そのなかで生きる人物の相関やら出来事やら、そういうのを考えていくのは、さぞや楽しい作業じゃないかなと思ったりする。一度でも小説を書こうと思い立ったことのある人なら、そういう楽しさはわかると思う。あくまでも小説を書く労苦は脇に置いといての話ですが(笑)

そのほかの収録作品

「猫」
「朧夜」
「ふたたび猫」
「日盛り」
「秋」
「春の雲」
「みたび猫」
「乳房」
「おしまいの猫」
「秋色しぐれ町」

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2008-09-23(Tue) 20:20| 藤沢周平の世界| トラックバック 0| コメント 0

藤沢作品の女性たち-丸谷才一他「藤沢周平の世界」

「藤沢周平の世界」

藤沢周平の世界
(文春文庫)


藤沢周平のファンならきっとこの本を読んでいる人は多いんじゃないかな。
「藤沢周平の世界」は藤沢周平の作品を愛してやまぬ30人のオマージュ。
文庫の後書きや全集の解説、書き下ろしのエッセイなどを一堂に集めたもので、それぞれの視点で藤沢作品の魅力が語られています。
そして「へえー、この人が」というような、意外な人を発見したりして、こういう点でもなかなか面白い本になっています。
各人各様の視点の当て方で、どれも興味深いものばかりですが、もっとも興味を惹かれたのは藤沢作品の中に登場する女性像に対するもの。
常磐新平は用心棒シリーズの魅力のひとつは佐知という女にある、とまで書いて、藤沢作品のなかでの女性を重要視してます。
たしかに彼の作品には印象深い女性がたくさん登場します。
「用心棒日月抄」の佐知、「海鳴り」のおこう、「蝉しぐれ」の福、「ただ一撃」の三緒、「泣くな、けい」のけい、ざっと思いつくままに挙げてみただけでもかなりいます。
個人的には「海鳴り」のおこう、あういう女性が好きですね(笑)
あえて共通するイメージをいうなら、姿良く、自分というものをしっかり持ち、可憐かつ清楚、ときには男に伍する大胆な活躍を見せる。
なにより共通している点は、そのストイックさだと思います。
とくに武士の世界に生きる藤沢周平の侍たちは、多かれ少なかれストイックな生き方を通しているわけですが、それに比例する形で、女性もまたストイックにならざるを得ない。
身分社会だし、自分が好きな相手と勝手に恋愛なんて出来ない。不倫なんか重ねて四つに斬られるか、武家じゃなかったら引き回して晒され、身分を落とされる。こういうきつい縛りのある状態での男女、そしてそのなかで起こる恋愛というのはある意味、とても甘美なんだろうなと思います。
封建的な身分社会のがんじがらめの世界で、表に現れるにしろ、秘するにしろ、人が己の心情を貫くとどうなるか、藤沢周平はそのことを知り尽くし、また彼の書く女性像は、そういう世界の構造の象徴である気がします。またそれを不幸せな女として捉える、こんな視点もあります。
純粋な恋愛小説は藤沢周平の小説にしかない、そう看破した人もいました。禁欲的恋愛は純粋昇華する。かなりうなづける話です。
とにかくこの本、藤沢周平の作品を読み進んでいく上で、様々な視点を獲得してより深く藤沢作品を楽しむ、そういう意味ではまたとない指針になるのは間違いありません。

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2008-09-23(Tue) 14:14| 藤沢周平の世界| トラックバック 0| コメント 0

山桜は泣けます-藤沢周平「時雨みち」

「時雨みち」

藤沢周平「時雨みち」
(新潮文庫)


武家物と市井物が入り交じった短編集。
1979年から1981年頃に書かれた十一編が入っています。
このなかでも注目は「山桜」
わずか20ページほどの短篇ですが、
珠玉の短篇という言葉はこのような小説のためにあるんだろうと思います。
じつは藤沢周平の作品の中で特に好きなもののひとつです。
つい最近田中麗奈と東山紀之で映画化されています。
観ましたが小説のラストにある野江の心情よりはどうも映画の方が軽い気がして、自分としてはいまいちでした。田中麗奈の野江というのはとても新鮮でしたが。

「山桜」

最初の夫の病死で実家に戻り、その後磯村の家に再嫁したが、家風に馴染まず、つらい日々を送っている野江が主人公です。
舞台はおなじみの海坂藩。
春先にひさしぶりに実家を訪れて叔母の墓参りを済ませた野江は、帰り道の丘にあった薄紅色の山桜の花に手を伸ばすが、届かない。
そのとき「手折ってしんぜよう」と声を掛てきたのが、かつて野江に縁談を申し込んだことのある手塚弥一郎という武士。その縁談は弥一郎が剣客だと知り、粗暴な性格ではないかと思って断った。
その弥一郎に「いまは、お幸せでござろうな」と訊ねられ、思わず「はい」と答える野江。
その後母に弥一郎のことを尋ねると、弥一郎は野江が娘の頃から知っていると言う。
自分を案じてくれている人がいる、野江はもう一度磯村の家で頑張ろうと心に誓う。
同時に心優しい弥一郎に惹かれている自分を感じます。
そんなある日、弥一郎が藩の奸臣、諏訪平右衛門を斬ったと知らされます。
馬鹿な男だと嘲笑する磯村の夫の言葉に耐えかね、
野江は持っていた夫の羽織を投げ捨てます。
こうして再び離縁された野江は、ある日山桜を手みやげに、
幽閉の身となっている弥一郎の家を訪ねます。
弥一郎はすぐに切腹とはならず、国主の帰還を待って沙汰を待つ身となっています。
家には弥一郎の母だけが暮らしています。
「いつかあなたが、こうしてこの家を訪ねてみえるのではないかと、心待ちにしておりました。さあ、どうぞお上がりください」
挨拶より先に、その花をいただきましょう、しおれるといけませんから、と弥一郎の母は言い、野江の手から桜の枝を受け取ると、また上がってくれとすすめた。
履物を脱ぎかけて、野江は不意に式台に手をかけると土間にうずくまった。ほとばしるように、眼から涙があふれ落ちるのを感じる。とり返しのつかない回り道をしたことが、はっきりとわかっていた。ここが私の来る家だったのだ。この家が、そうだったのだ。なぜもっと早く気づかなかったのだろう。
ちょっと引用が長くなりましたが、
これがラストの文章の一部です。ここに差し掛かるといつも胸が詰まります。

人はいつもなにかしらの選択を迫られて生きています。
その選択の積み重ねが歳月というものなのでしょう。
ひとつの道を選択したとき、選択されなかった別の道を行けばどうなったか。
「もしも…」という言葉ほど人にとって哀切なものは無いのかも知れません。
この小説の野江は今度こそ幸福になるかもしれない、という小さな希望が垣間見えます。
回り道して自分の行くべき道にたどり着いた野江の幸福を願ってやまない気持ちになります。
人は本当の出会いをいつも見つけられずにいる、哀しい存在なのでしょうね、きっと。

そのほかの収録作品

「帰還せず」
「飛べ、左五郎」
「盗み喰い」
「滴る汗」
「幼い声」
「夜の道」
「おばさん」
「亭主の仲間」
「おさんが呼ぶ」
「時雨みち」

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2008-09-20(Sat) 20:08| 藤沢周平の世界| トラックバック 0| コメント 0

武家の世界の過酷さ-藤沢周平「冤罪」

「冤罪」

藤沢周平「冤罪」
(新潮文庫)


1974年から1975年の1年間に書き上げられた、いわゆる武家ものの短篇小説集。
武家の世界というものの過酷さがよく描かれている。
どの作品も味わい深いが、
この短編集の中でとくに注目したいのは「潮田伝五郎置文」と「臍曲がり新左」の2編。

「潮田伝五郎置文」

叶わぬ初恋に剛直に殉じたある武士の話。身につまされます(笑)
潮田伝五郎と井沢勝弥の河原での果たし合いから物語は始まる。
二人は幼なじみであるが、伝五郎はわずか十七石取りの軽輩。
井沢勝弥は三百石の上士の跡取りである。勝弥は伝五郎を貧乏ゆえに侮り、
幼いときから二人は因縁浅からぬ間柄だった。
果たし合いは伝五郎からの一方的な申し込みによるものだった。
その理由とは、井沢勝弥が幼少の頃から秘かに心を寄せ、
伝五郎にとっては女神の位置までに高まっていた友人の姉、
七重の不倫相手と知れたためであった。
七重もまた上士の娘であり、今では藩政を切り回す男の妻となっていた。
伝五郎にとっては井沢勝弥は女神を汚す存在だったのだ。
伝五郎は井沢勝弥を討ち取り、その場で自らも切腹して果てる。
七重にとって、伝五郎は路傍の石くれぐらいの存在に過ぎず、
その伝五郎がなぜ愛する井沢勝弥に討ち果たしたのか不可解であり、
その事で伝五郎を憎んでさえいる。
伝五郎と七重の、この心根の遠い距たりは、
そのままどうしようもない武士の世界の身分や階級を映し出している。
このあたりの洞察力が藤沢周平の真骨頂かもしれない。
それにしても霧深い夜明けの河原で行われた果たし合いのシーンは印象的。
一人が討ち果たされ、その後その骸の傍らでもう一人が切腹する。
霧が晴れ、明るくなると河原にはふたつの骸が横たわっている。
そのことを知らぬげに川はいつものように流れていく。
この2つの死はありふれた時間の中で生起する単なる物事のようだ。
死を時間の遠景のなかで捉えている感覚。
その描写に藤沢周平の虚無的なある眼差しを見る気がします。

「臍曲がり新左」

臍曲がりで有名な治部新左衛門。反骨の古武士である。
あるとき隣家の青年武士、犬飼平四郎を助けることで、
藩の政治闘争に巻き込まれていく。
平四郎は新左衛門にとって日頃から厚かましいと思っている存在である。
新左衛門の娘、葭江と平四郎はどうも憎からず思っている間柄に思えて、
それも新左衛門にとっては腹立たしいことである。
それがこの事件をきっかけに平四郎との関係が始まり、
新左衛門が平四郎の言動に辟易しながらも見直したり、
呆れたりする様子がユーモアたっぷりに描かれて面白い作品。
臍曲がりと呼ばれ、新左衛門は時代と折り合うことが苦手な古武士だが、
しかし筋を通すときにはきっちりと通す。
そういうことを忘れがちな現在に、新左衛門はとても魅力的な存在に写る。
平四郎はまたある意味とても今風な若者で、
それを新左衛門と対比させることで、すごく現在的な物語になっていると思う。

そのほかの収録作品

「証拠人」
「唆す」
「密夫の顔」
「夜の城」
「一顆の瓜」
「十四人目の男」
「冤罪」

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2008-09-15(Mon) 11:36| 藤沢周平の世界| トラックバック 0| コメント 0

二人の盗人の光と影-藤沢周平「驟り雨」

「驟り雨」

藤沢周平「驟り雨」
(新潮文庫)


この短編集の大方は哀しい江戸の女の物語なのだが、
本の表題にもなっている「驟り雨」と「贈り物」という二つの物語は、
盗人を主人公にしたものだ。
これがなんとも秀逸。

「贈り物」

「贈り物」は死を予感させる病気に憑かれたある老盗が、
親身に看病してくれた同じ長屋の女の窮地を救うために、
最後の盗みを働き、死んでいくというお話。
亭主に捨てられた三十半ばの、
あまり器量よしでもない女とのつかの間の交情に、
残り少ない人生を賭してしまう老盗の心根が妙に胸を打つ。
そして盗んだ金をもらい、いいつけどおりに、
老盗との関係を知らぬ存ぜぬで口をぬぐった女が、
結局自分はただお金が欲しかっただけではなかったか、
と最後に思い至るのも、かなりやるせない。
こういうのが人生なのかも知れない。

「驟り雨」

もうひとつの「驟り雨」は今まさに盗みに入ろうとして、
八幡さまの軒下に潜んで、そのチャンスを待っている盗人が、
その境内に現れる色んな訳ありの人々によって邪魔され、
とうとう最後には幼い娘の手をひいた病気の女が現れることによって、
盗みを諦め、母娘を家まで送っていくという物語。
犯罪の一歩手前で引き返し、慈悲なるものに動かされて、
母娘の前に現れると、女を背負い、その幼い娘の手を引いて、家路に着く。
「人生捨てたもんじゃない」
という晴れ晴れとした盗人の呟きが聞こえてきそうだ。
盗人と若い母親との間に愛が芽生えそうな予感もする。

この盗人二人の行為のベクトルは、一見正反対だが、
二人は同じ地平に立っているようにも思えてならない。
生死、善悪、幸不幸、
綾なす境涯に紙一重のように生起するものに翻弄される人間。
短編集に収められているこのほかの女たちの物語もまたしかり。

それにしても藤沢周平の情景描写の確かさは舌を巻くばかり。
「贈り物」の中で老盗の作十が、
昔の盗人仲間である寺男の六蔵を訪ねていく折の描写がすごく良い。
おかしな言い方だが、 まるで文字の映画。
これぞ藤沢周平的世界。

そのほかの収録作品

「うしろ姿」
「ちきしょう!」
「人殺し」
「朝焼け」
「遅いしあわせ」
「運の尽き」
「捨てた女」
「泣かない女」

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2008-09-07(Sun) 16:17| 藤沢周平の世界| トラックバック 0| コメント 0

なぜ時代小説なんでしょう

昔から小説好きだったが、いつの頃からか現代小説というのはほとんど読まなくなった。
年齢のせいかも知れないが、ひとつには現代小説のなかに書かれる風景に馴染めなくなったというか、読んでいて妙に索漠とした気分になるというか、
そんなことを感じ始めてから、今風の小説はほとんど手に取らなくなった。
べつに自分自身、時代に対して嫌悪し、退行しているという感じではない。
時代小説にはなぜか心落ち着く風景が出てくる。
日本の喪われた風景がそこにあるからだという。
だがその風景をわたしたちは知っているわけではない。
喪われた風景といっても想像の中での風景だ。
でもその知るはずのない風景が琴線を揺さぶり、
郷愁を誘うのはなぜだろうか。
風景に限らず時代小説に登場する人々の振る舞いも、
なぜかしら心落ち着けさせるものがある。
そういう時代小説の魅力の先端に藤沢周平の小説があると思う。
このブログは藤沢周平を中心に、
勝手気ままに時代小説の魅力の「なぜか?」を語ってみたいところです。






2008-09-07(Sun) 15:59| 時代小説あれこれ| トラックバック 0| コメント 1

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