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時代小説、映画、JAZZ、それらを大人の楽しみとして愛でること。雨の夜の鴉のごとく、耳鳴りとともに日々の悪夢に苛まれつつも。

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女を生きる-乙川優三郎「夜の小紋」

「夜の小紋」

乙川優三郎「夜の小紋」
(講談社文庫)


少なからず純文学の香気漂う作品集。
もとより純文学とか大衆文学だとかの分け隔ては意味が無いと考えていますが、あえて言えば、ある種の高貴な雰囲気を兼ね備えたものを純文学だと人々が言い習わしていた、
また事実、読むたびに何かしらの深い示唆を与えられたものを純文学だと言っていた、そういう時代の小説の雰囲気を持った作品集だと思います。
では小難しい小説かといったら全然そんなものではありません。
江戸の町に生きる女たちの香しい姿を良く伝えている、そういう作品集だと思います。

「芥火」

水茶屋上がりのかつ江は、大店の旦那に妾として囲われ、九年の歳月が流れる。かつ江は男を待ち続ける日々に飽いて、着物をあつらえる趣味に没頭していた。
かつ江は男でも金でも、目の前に何か追いかけるものがないと生きていけない性分なのである。
そんなかつ江に旦那から別れ話が持ち出される。
かつ江は潔く身を引き、これから暮らしのためにはかつて自分が住んでいた世界に戻るしかないと思い、深川の町に出物を見つけ、そこで小さな切見世(安い女郎屋)をはじめることにする。
そしてかつ江はかつて自分が働いていた水茶屋の女将で、
いまは娼家を営むうらに相談を持ちかける一方で、
昔馴染みの男からとにかく金を引き出そうと金策に動き始める……

江戸はとにかく海をどんどん埋め立てて広がっていった都市で、
この小説の舞台となる深川あたりなんかもそういう埋め立て地です。
芥や土で海を埋め立てると、まず安手な岡場所を作ります。
娼家が立ち並ぶと、男がどんどんやってきますから、土地が自然と踏み固まる。
ある程度固まったら、さっと移転するなり、壊すなりして新しい町を作る。
そういうサイクルだったわけです。
だからこういう海沿いの町に集められた女たちというのは、かなり底辺層の女たちだということになります。
かつ江はそういう町で生きてきて、生き伸びていくには、自分しか頼るものがないんだということを良く知っている女です。だから男から金を引き出すにしても、ためらいもせず女としてのあらん限りの手管を使う。
でも男にもたれかかって生きるという幻想はあっさり捨てています。
だから生きるためにはどんなことでも厭わない。
女として在ることと、生きるということが区別なく重なってる。
そういう気がします、
娼家の女将であるうらがかつ江に言う言葉があります。
「生きるのが商売だから」
この言葉はなぜか「女を生きるのが商売だから」とも聞こえてきたりします。
したたかでたくましい生き方です。

「夜の小紋」

魚油問屋の次男由蔵はふとしたことで江戸小紋に魅せられ、
親の許しを得て修行することに。
いつか自分が考案した小紋の型を彫り、それを生業としていく夢を持っていた由蔵。
色挿し職人のふゆとも行く末を誓っていた。
たが家を継いだ兄が急死し、由蔵は父親の説得でやむなく家業を継ぐことになり、ふゆとも別れる。
由蔵は商売に没頭していき、いつしか小紋のことも忘れていった。
だがいつかは魚油問屋を兄の子供に引き渡さなければならないと気づいたとき、由蔵の心は自分を失っていく。
そんなある日、なじみの料理屋の女将はやが、おもしろい小紋を見つけたと言い、それをあしらった着物を由蔵に見せると言う。
やがて出来上がってきたその小紋を見た由蔵は驚く……

この小説でもふゆという色挿しの女の生き方が清冽に綴られることになります。
結局ふゆは作中に登場しませんが、
自分を見失いつつあった由蔵を促す存在として語られます。
女には無理だと言われ、仕事場を転々としてでも、
自分の色と意匠にこだわり抜き、
色挿し職人として洗練の高みに登っていったふゆ。
そういうふゆに由蔵は最後はかき立てられるものを感じ、
新たな一歩へと踏み出していこうとします。
それはもう男とか女とか、
情愛の幻想をすでに越えた促しだと思います。
しかし登場しない女の生き方を間接的に語る方法は見事ですね。

他にも「柴の家」のふきという女の生き方も心に残ります。
主人公との交情も胸に納めて、
自分の色を実現するために作陶に賭けていきます。
どれもこれも女のそれぞれの生き方ですが、
世俗のなかで何にまみれようと己れを見失わない、
そういう強い生き方をする女たちが、
この作品集の主人公だという気がしますね。

そのほかの収録作品

「柴の家」
「虚舟」
「妖花」

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2008-10-17(Fri) 00:51| 乙川優三郎の世界| トラックバック 0| コメント 0

武家のおんなたち-乙川優三郎「屋烏」

「屋烏」

乙川優三郎「屋烏」
(講談社文庫)


乙川優三郎は女性を描くのが上手な作家だと思う。
個人的にはこの作家のものはどちらかというと市井ものより、武家もののほうが好きなんですが、
とりわけ女性にとって過酷な環境であった武家社会のなか、
抑えた生き方を強いられた姿がよく乙川優三郎の筆に合っている感じがします。
もちろん市井もののなかにも魅力的な女性がたくさん登場しますけれど。

「屋烏」

政争に巻き込まれて斬死した父親に代わり、
家長として幼い弟を育て、長い間家を守ってきた揺枝。
すでに弟も元服して嫁を貰い、家の主として自立している。
気がつけば婚期も逸し、世間からは「松の行かずどの」とあだ名されている。
このままではいつか家の厄介者になると揺枝は思い、そろそろ家を出ねばと考えている。
ある日揺枝は竜神社を訪ねる。
その帰りに下駄の鼻緒が切れ、すげ替えてるところに一人の武士から声を掛けられる。
武士の名は宮田与四郎。
揺枝の父が死んだ現場に居合わせた剣士である。
与四郎の顔にはそのときの刀傷が生々しく残っていた。
与四郎の評判は悪く、粗暴で誰彼となく喧嘩を仕掛けるという噂があった。
だが揺枝は与四郎の心優しげな態度を見て、
与四郎も無責任な人の噂に追い回されているのではないかと直感する。
揺枝の心に初めての恋心が芽生える。
そんなある日与四郎が私闘を行い、家禄を削られお役目を解かれたという話を揺枝は聞く。
揺枝は思い切って与四郎の家を訪ねようと思い立つ。

屋烏之愛という言葉があります。
屋烏とは屋根に留まっている烏のことで、
愛するあまりその人の家に留まっている烏まで好きになってしまうという意味です。
ゆえに屋烏というのは、その家で一番必要のないもの、
という事になってしまいます。
逆に屋烏には家の守り神、そういう意味も暗に含まれています。
揺枝と与四郎はそれぞれ家の屋烏であり、藩の屋烏である、
そういうことだと思います。
そのふたりが出会い、お互いに好意を持つのですが、なかなかすんなりとは進展しない。
感情を抑える恋、それだけに小説の最後はかなりほろっときます。
この短篇、どうしても藤沢周平の珠玉の短篇「山桜」と引き比べてしまいがち。
それぞれに良さがありますが、
「屋烏」のほうの揺枝がより強い女性に描かれている感じがします。

「穴惑い」

足掛け三十四年に及ぶ敵討ちの旅を終え、上遠野関蔵が郷里の藩に帰ってくる。
我が家には妻の喜代が待っていた。
おそらく死んだと思われていた関蔵が帰ってきたことで、
様々な出来事が上遠野家の身辺や家中に巻き起こる。
家督のこと、自身のこれからのこと。
そして喜代のこと。
果たしてそれらを関蔵はどう始末していくのか。

穴惑いとは、時期が近づいても、冬眠のための穴を探せないでいる蛇のことだと小説にあります。
無事仇討ち本懐を遂げ、
家に帰ってもそこはすでにもう自分がいるべき場所ではなくなっている。
これは関蔵自身の比喩なんでしょうが、
それにしても三十四年も家を空けるというのは途方もないことですね。
まるで浦島太郎(笑)
氏家幹人の「かたき討ち― 復讐の作法」なんか読んでも、
仇討ちの旅に出てとしても、
首尾良く仇に出会うことは本当にまれで、
一生出会えずそのまま他国の地で亡くなる、
なんてことはざらだったようです。
この制度は武家社会の数ある過酷な制度のなかでも、
ダントツに厳しいものですね。
残された家族も不幸です。
そういうことですから、
関蔵の帰還から、自分たちの終の棲家を求めて江戸へ行き、
失った夫婦の歳月を少しずつ取り戻していく様子はなかなかいいですね。
この小説、武家のしきたりに生きる妻の喜代への視線が、
とても肯定的で、暖かい感じがします。

武家の妻女を生きるというのは、とても厳しかったんだろろうと思います。
そういう女性たちにひかりを当て、制度に負けない芯の強さを、
魅力と感じさせる乙川優三郎の筆は確かなものだと感じました。

そのほかの収録作品

「禿松」
「竹の春」
「病葉」

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2008-10-12(Sun) 17:55| 乙川優三郎の世界| トラックバック 0| コメント 0

言葉の美しさ-乙川優三郎「武家用心集」

「武家用心集」

乙川優三郎「武家用心集」
(集英社文庫)


第10回中山義秀文学賞を受賞した乙川優三郎の作品集。
乙川優三郎はポスト藤沢周平とも言われている一人です。
たしかにプロットや肌ざわりが似ているところがありますが、
当然のことながらやはり乙川優三郎は乙川優三郎で、藤沢周平ではありません。
いまは亡き藤沢周平の現在進行形を読みたいなどと、ファンなら叶わぬ幻を追い求め、
どこかで似ている作家がいると聞いただけでいそいそと手に取ってみます。
でもどこか違う、これは違うものだと思ってがっかりする。
最後には「なんだ違うじゃねぇか」などと危うく口走ってしまいます。
でもこれはその作家に対する埒もない言いがかり以外のなにものでもありません。
違うのは当たり前ですから(笑)
以前にそんなアホなことを思って、
乙川優三郎を遠ざけてしまった自分に自戒をこめて(笑)
乙川優三郎の特徴は端正な文体もさることながら、
なんといってもその言葉の美しさにあります。
だからといって物語がないがしろにされているわけではありません。
それどころか、むしろ非凡な語り手だと思います。
でもその物語もまず言葉の美しさを捉えるところから始まっているような気がします。
レアな手垢のついていない言葉を、物語の隠された基点とするような、
そういうところがあるんじゃないかと。勝手にそう思いました。
まあそんなに単純ではない気もしますけど、少なくともこの作品集ではそう思いました。

「田蔵田半右衛門」

倉田半右衛門は八年前に、何者かに追われている友人に助勢し、
友人を追っているのが藩の捕吏だったために、罪に問われることに。
半右衛門が捕吏と戦っているうちに当の友人は逃げてしまっていた。
聞けば友人は父親とともに不正を働いていたとのこと。
重科は免れたが、半右衛門は禄を削られ、閑職へと追いやられる。
この事件をきっかけに、自分には関係ないことで捕らえられた半右衛門を
人が麝香鹿(じゃこうじか)を狩るときに、
なぜか飛び出してきて代わりに殺される獣のことになぞらえて、
「田蔵田半右衛門」と呼び、家中で侮るようになった。
以来半右衛門は人づきあいを避け、釣り三昧の日々を送るようになった。
その半右衛門の許に兄が訪れ、
藩の家老である大須賀という人物を暗殺せよという内命を伝える。
藩主の意向であり、上意だという。
半右衛門は断ることが出来なかった。
そこで半右衛門は、大須賀という人物が本当に暗殺に値する奸臣なのか、
その人となりについて知りたいと思い、数少ない友人達を頼んで調査し始める。
だがそこに浮かび上がってきたのは奸臣とはほど遠い男の姿だった。

なかなかいい物語だと思いました。
最後には幸福な結末が待っていますが、
結局窮地に立たされた半右衛門がその窮地をどうしのいだか、
武家用心とは身の処し方の謂いだろうと思います。
武家社会のしきたりとしがらみの中で、盲従せず己で判断する、
その判断の先に何が待っていようが、覚悟のうえ、そういうことだろうと思います。
ところで「田蔵田」は麝香鹿(じゃこうじか)に似た中国の獣(おそらく想像上の動物だと思います)で、
麝香鹿狩りのとき、自ら飛び出してきて殺されるという、
自分に関係のないことで死ぬ愚か者のことですね。転じてそういう真似をする人のことを侮る言葉です。
しかし柳田国男の「たくらた考」のなかに、
昔の日本の村には生まれつき愚かな人を神様のお使いとして大事にする風習があったそうで、
そういう人にあたえる田をたくら田と言ったという話があります。
まずはめでたしの小説の最後、家族で釣りに興じるシーンが出てきますが、
じつに幸福そうで、そういうのも題名の背後にあったんじゃないかと思いますね。

「邯鄲」

津島輔四郎はわずか三十九石の新田普請奉行の添役。
七年前に妻を離縁していまは女中のあまとふたりで暮らしている。
あまは貧農の娘で十四のときに津島家に来て、いまは二十歳である。
来たときはぼろを纏い、
痩せて貧相な娘だったが年ごとに武家のしきたりや料理、言葉遣いも習い覚え、
輔四郎も眩しく思うほどに成長していた。
ふたりは平和に暮らし、そろそろあまを嫁にやらねばと、
輔四郎はぼんやり考えていた。
だが輔四郎にはあまなしの生活は考えられなかった。
そんな輔四郎に上意の内命が下る。
藩の中老を暗殺した忍びの頭領を斬れという命令である。
輔四郎の家は代々剣の流派、津島流を伝える家柄だった。
だが相手は相当に手強く、こちらが命を落とすことは十分に予想できた。
しかし上意とあれば断ることも出来ず、
もし自分が死ねば後に残されるあまの今後も考えなければならなかった。
上意討ちの命が下ったことをあまに告げると、
あまは意外にも一緒に連れて行ってほしいと輔四郎に言う。

邯鄲という言葉は「邯鄲の夢」の故事でも有名ですが、
一方では半透明の美しい姿と鳴き声を持つ、
コオロギの仲間の名前でもあります。
中国では天蛉と呼ぶそうですが、
美しく短命なので非常に儚いイメージがあります。
あまが鈴虫やこおろぎの鳴き声を真似る名手だという文章が出てきます。
このあたりで、邯鄲というのはあまの姿、そう思っていました。
でもラストで物語が意外な方向に動き、
悲劇がやってくるのではないかという予感と共に
上意の内命が下る前の、輔四郎とあまの穏やかな日々、
それこそが「邯鄲の夢」だということではなかったか、
そう思い至ると、この物語がいっそう深まった気がします。

他にも「九月の瓜」「しづれ雪」「うつしみ」も良かったし、
この作品集はほんとうに粒よりの短篇が収録されています。

そのほかの収録作品

「九月の瓜」
「しづれ雪」
「うつしみ」
「向椿山」
「磯波」
「梅雨のなごり」

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2008-10-11(Sat) 19:43| 乙川優三郎の世界| トラックバック 0| コメント 0

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